広島東洋カープ2011−2012
特別企画 島村俊治の赤ヘル野球・そして前田智徳

 オールドファンならNHK地上波で、CS・BSの普及した昨今ではJスポーツ「野球好き」プロ野球中継などで、元NHKエグゼクティアナウンサー島村俊治さんの実況に触れた方は多いと思います。カープの黄金期以来長きにわたって放送席やグラウンドからカープを見守ってきた島村さんに、とっておきの秘話や前田智徳選手にまつわる思いなどききました。(聞き手・田辺一球)

 ―島村さんとカープ、この壮大なテーマの下、カープ黄金期のお話などをうかがいながら最近のカープと、代打の切り札として活躍する前田智徳選手についても触れていただきたいと思います。強い時代のカープと言えば、やはり日本シリーズですね。

カープが初めて日本シリーズに出場したのは1975年(昭和50年)で、僕は西田善夫さん(元NHKアナウンサー、解説委員)と一緒にベンチリポーターをやっていました。結果的にカープは一勝もできず、のちに「1勝もしなかったからカープは完敗」という評価が一般的になりました。しかし当時、阪急監督だった上田利治さんは『あの日本シリーズは、凄く辛い試合の連続だった。実際にチーム力は五分五分で4勝3敗でもおかしくなかった」と打ち明けてくれました。上田さんがカープOBだったこともあるけど、カープ躍進の前兆を感じとっていたのでしょう僕もその年、オールスターゲームでの赤ヘルの躍進もあって同じ気持ちを抱いていました。
 
 チームを変えたアベック弾4発・そして、日本一への道

 ―山本浩二、衣笠祥雄のダブルアベックホームランですね。

はい。それまでオールスターゲームの主役と言えば巨人、阪神であり、王、長嶋でした。球界を代表するチームもセ・リーグでいえば巨人、阪神。パ・リーグで言えば黄金期を迎えていた阪急、そして優勝は出来なかったけど西本幸雄監督がチームを率いて、エース鈴木啓示がいた近鉄でした。こういう中にあって山本浩二、衣笠の二人が大舞台で2打席連続ホームランの共演をやってのけたのです。市民球団であり、赤ヘルと呼ばれ、球界の中で苦しんでいたカープが脚光を浴びるキッカケとなったのがこのオールスターです。今までセ・リーグの中でも脇役的な存在だったのに、オールスターに出場できなかった選手も含めてそれぞれ自信をつけていったのです。

 ―その自信を胸にXI戦士が臨んだ日本シリーズ、先程のお話ではグラウンドの見えないところでも激しい火花が散っていったようですね。

上田利治さんと古葉竹識さん、二人の知将の対決。関大で村山実さんとバッテリーを組んでいた上田さんは、関西野球界では知られた存在でした。関大時代に総代を務めたほどクレバーで洞察力がありました。一方の古葉さんも南海コーチ時代、ヘッドコーチを務めたドン・ブレイザーの下でアメリカの野球を学んでいます。
当時の野村克也監督の影響を受けているかどうかはわからないけど、間違いなくブレイザーの影響は受けていますね。いまのメジャーリーグと違い、ブレイザーは細かい野球をやる人でした。ここに当時の南海の粘っこい野球がプラスされて、のちに古葉さんのキャッチフレーズにもなった「耐えて勝つ」の下地が作られていったのではないかと思います。
古葉さんはいつもベンチの端に立ってサインを出していました。古葉さんの話では達川さんに「本当に困った時はベンチを見ろ。ベンチはいつもプレーを見て、サインを出しているから…」と言ったそうです。全球、バッテリーと同じように考えて、一緒に野球をやっているんだからベンチを信頼しろ、とそういう意味だったんです。
こうした広島の野球のいい伝統を受け継いだ上手い捕手と上手い内野手の対決…。プロ野球の歴史では川上さんが作ったX9の記録が続いていますが、それまでの巨人中心だった野球を地方球団のカープが、そして人気面でセに大差をつけられていたパ・リーグがどうやって打ち破っていくのか、という時代でもありました。
ところで1975年の日本シリーズは阪急の新人投手でもあった山口高志を中心に展開されました。彼は、上背はなかったけど浮き上がるストレートが武器でした。今はいないですよね、そんなすごい球を投げる投手…。僕には当時新人だった山口が自信満々に見えました。
なんでだろう、と思ってある時、彼に聞いてみました。すると彼からは意外な答えが返ってきました。「そう見えるんですか。僕は心臓が張り裂けそうなぐらいドキドキしているのに…。でも相手にそう見えるのは、僕の価値ですね」
僕はその価値を作ったのは当時、阪急のエースだった足立であり米田であり山田だったと思います。いい投手はいい先輩たちがいるチームで伸びていく。その代表例が山口高志だったのです。カープも池谷、北別府
山根、大野、川口、津田…。いい手本となる先輩を見ながら、みんな育ってきたんです。でも残念ながら、今のカープは若い投手が中心ですからお手本がいませんよね。若手はコーチに教わっている。自分達でやっていかないといけないのがつらいところです。
 
 ―安定した投手力と山本浩二、衣笠ら生え抜き選手を軸にした協力な打線を武器に古葉カープは絶頂期を迎えます。

カープがV2を果たした1979年(昭和54年)以降はまさに古葉さんの時代となりました。79年、80年、84年の日本シリーズはすべて4勝3敗。僕がこの仕事をやっている47年間の中でのメモリアルです。当時、NHKラジオで担当した広島戦の日本シリーズ全7戦の勝敗、6勝1敗なんですよ。

 「江夏の21球」実況席から つぶさに見ていくと…

 ―では、本日の「核心に迫る!」コーナーに進みたいと思います。1979年、日本シリーズ第7戦!

はい、古葉さんと西本さんの対決です。西本さんは名監督です。人を育てる教育者です。球界の歴史の中でも一番だと思っています。上田さんの基礎を作ったのも西本さんです。この年のメンバーを見渡しても、羽田、梨田、栗橋、マニエル…。彼らを鍛え、育てたのは西本さんです。「桃栗3年、羽田8年」なんて言われていました。一方、古葉さんが育てた選手も79年頃にはいい形になってきました。
僕がこの年の日本シリーズのラジオ実況したのは第3戦と第7戦です。第3戦は、代打をうまく使ってカープが勝ち、第7戦は、のちに「江夏21球」と言われ物語風のドキュメントになる名勝負が生まれました。
シリーズが終わってこの第7戦に目をつけたのが野球評論家として活躍していた元巨人の瀧安治さんです。1球を巡るドラマは翌1980年4月に創刊された雑誌『Number』の創刊号にドキュメント作家、山際淳司が書いたノンフィクション『江夏の21球』として掲載され、これをベースにNHKが1983年1月『NHK特集、スポーツドキュメント江夏の21球』をオンエアしました。これが日本のスポーツドキュメント番組の始まりです。僕が喋ったラジオ音声を交えた仕上がりになっています。
あの試合は一球一球にドラマがあり、試合前半から大きな動きがありました。そして9回裏、4対3でカープリードのまま近鉄の攻撃を迎えます。あの時のことは克明に覚えていますよ。投手江夏、監督古葉さん。立場が違う二人の思いがどういう風に相反するのか、そういうことを考えながらマイクに向かって喋っていました。
あの場面を作ったのは江夏自身なんです。無死一、三塁となって、池谷と北別府が投球練習を始めたわけですが、古葉さんにすれば延長戦を想定してリリーフの準備を始めさせた、それを江夏自身は「自分がまいた種だから、自分が刈り取る。なんでベンチはあんな事をするんだ」と明らかに不機嫌な態度をとるようになる、それを衣笠がなだめに行く… 
結果的には続く平野を四球で歩かせて佐々木恭介と勝負せざるを得なくなりました。そしてカウント1−1から佐々木が打った三球目は三塁線へ。放送席の僕は打った瞬間ファウルだと思ったのですが、三塁を守っていた三村がジャンプして一瞬、グローブに当たったようにも見えました。でも三塁塁審の判定はファウル。真相はわかりません。一昨年、三村さんが亡くなって、本当に墓場にまでその瞬間の出来事を持っていかれましたからね。一方の佐々木は、あとになって「もし時を遡ることができるなら、あの打席をもう一度やり直しをしたい」と語っています。
そのあと佐々木は三振に倒れ、続く石渡茂の1ストライクからの2球目がスクイズでした。江夏が自分で外した、と言われていますが実際のところは分かりません。1960年、大毎の監督だった西本さんはスクイズを失敗して「永田ラッパ」言われた永田雅一オーナーと大喧嘩になり監督を解任された経験の持ち主です.一死満塁で、果たしてまた西本さんはスクイズのサインを出すのだろうか?打者の石渡はそんなに打てるタイプではないし…。僕はそんなことを考えながら実況していました。それにしても江夏のはずし方もそうだし、運、不運が凝縮されたような一球でした。もし、石渡があの球をファウルに出来ていたら…。でも結果的にはスクイズは外され、スタートを切っていた三塁ランナーの藤瀬がアウトになりました。市民球団が30年かかってやっと初の日本一になった瞬間でした。
翌1980年の日本シリーズも、僕は第4戦と第7戦で喋りました。カープは歴史に残る2連覇を成し遂げました。1984年、カープ4度目のリーグ優勝の年は、日本シリーズで再び阪急との対決になりました。そして4勝3敗で阪急を破り上田・阪急に10年かかってリベンジすることができたんです。
僕はこの年、第1・第5・第7戦の実況を担当しました。第1戦はミラクル男、長嶋清幸の逆転ホームランが飛び出しました。第5戦は負けたけど第7戦は山根が完投して日本一になりました。1979年、80年の優勝は山本浩二、衣笠の二人を中心にスター選手が目立っていましたが1984年は脇役的な選手も活躍しました。本当の意味でのチーム力がもたらした日本一と言えるのではないでしょうか?
 でもカープの日本一はこれが最後になりました。1986年の阿南監督、1991年山本浩二監督がリーグ優勝は成し遂げましたが、日本一にはなれませんでした。セ・パ12球団の中でも最も日本一から遠ざかっているのがカープになってしまいました。1980年代のカープ黄金期を知っているファンの方は50歳以上が中心になってしまいました。それほど長い年月が経ってしまいました。

 赤ヘル野球と伝統の重み そして革新的な試みの数々

 ―赤ヘル、という言葉の持つニュアンスもその間に変わってきたように思いますそうですね。赤ヘルのイメージも薄れてきたかもしれません。でも、僕はそのイメージの変化はユニホームにあるかもしれないと考えています。

 ―…どういうことでしょうか?

 昔からメジャー・リーグでも伝統のあるチームは基本的にユニホームを変えないのが主流です。NYヤンキース、LAドジャース、SFジャイアンツもそうです。個人的にはカープが強かった1980年代のユニホームに戻してほしいと思っているんです。
 またユニホームに限らず、野球はもっと伝統を大切にするべきと考えます。メジャー・リーグではチームが築き上げてきた伝統をとても大切にする風潮がありますからね。どの球団もチーム作りに携わってきた人たちがいるわけですし、またその思いも大切にされなければいけません。これは野球を愛するファンとチームを繋ぐかけがえのない財産です。アメリカで野球が文化になっているのは、そういうところからではないでしょうか。
 そういう意味でも市民球団からスタートしたカープは日本球界の代表的な存在であってほしいと思います。カープはこれまでも常に新しいことを取り入れてきた実績と経験があります。これからも広島市民に愛されているカープの歴史を大切にして、率先して伝統なり、歴史也を広く伝えて欲しいものです。
 新しいと言えば、先日亡くなられた元広島大学川村毅教授をトレーニングコーチとして迎えたことについても少し触れておきましょう。川村教授は昭和40年代にチームの基礎体力を高めることなどを目的にして日南キャンプなどで指導されました。陸上競技の専門家がプロ球団を指導するという先進的な取り組みで、しかも猛烈なトレーニングの連続だったと聞いています。
 起床御、まずは400メートルトラック3周。いきなりです~ゲロゲロ吐く選手もいました。藤井のゴジさん(藤井弘選手)や昭和29年入団の河野選手ら中堅、ベテランもお構いなし。
もちろん入団して間もない衣笠らも一緒になって鍛えられました。余談になりますが川村教授によれば、筋肉の柔らかさ、瞬発力とも並はずれているのはやはり衣笠だった、ということです。
 またある時、厳しさに耐えかねた選手たちが川村教授を酔いつぶすつもりで食事に誘い取り囲みました。でも酔っぱらったのは選手の方…。本気でチームを強くしようというその当時にあって、練習の厳しさから生じるこうしたエピソードは枚挙にいとまがありません。中南米選手がメジャーで活躍することに目をつけ、ドミニカにカープアカデミーを創設したのも画期的なことと言えるでしょう。

 カープ黄金期の流れを汲む前田智徳の進路適正

 ―カープ初優勝前後のチームの表情が、かなり鮮明なイメージとなって広がるつつあります

 そう言ってもらえると話甲斐もあります。カ−プはこうして昔から選手を自前で育ててきましたよね。FA制度を利用して選手を他から引っ張ってくるようなスタイルではありません。確かにこのところのカープは苦しんでいます。でも、今のプロ野球の中でチーム作りで一番苦労しているのは、実は巨人監督ではないでしょうか?FAで補強した選手を起用しながら育成枠の選手も育てていくのは簡単ではありません。
 カープもFAでいい選手をとってもきてもいいと思いますよ。ただ、仮にそうであったとしても自前で育てた選手が軸になっていくのがやはり理想ですね。山本浩二、衣笠、さらにX2以降の黄金期を作った高橋慶彦や地元の崇徳高校出身の山崎隆造などそうそうたる顔ぶれです。
 そして、その流れを受け継いでいるのが、僕は前田智徳だと思っています。ひょっとしたらその流れを受け継ぐ最後の選手が前田になってしまうかも…、と思ったりもします。昔からカープは緒方孝市、江藤智、野村謙二郎と秀でた選手を作ってきた。前田選手を人によっては時代遅れ?と感じるかもしれませんが、古風で頑固な人は、自分の仕事をきっちりとこなして、そしてその道を切り拓いていく。

 ―前田選手に関しては私も入団当初から見てきました。言い方は変ですが野球選手なのに、時にまるで修行僧のように感じることがありました。

 僕が師匠だと思っているのが川上哲治さんなのですが、川上さんは昔からよく「鳴りきってみては?」という教えを説いていました。前田智徳も川上さんと同じ熊本県出身で熊本工業高校の先輩後輩です。そうした側面からも、彼も“鳴りきろうとしている”のではないでしょうか?
 川上さんは選手時代、常に自分のことだけ、打撃の事だけを考えていたんです。でも引退して、監督に就いてから初めて野球全体を観ることができるようになったと思います。前田も若いころの川上さんと同じように、同じものを求めて、頑固に野球をやり続けていますね。でも、さすがにもう打って守ってとはいきません。そういう中にあってここ数年、性格が丸くなってきた感じがします。それまで頑固一徹だった彼が少し柔らかくなってきた感じです。でも、前田智徳の基本は何も変わらないでしょう。
 彼が将来、川上さんと同じようにチーム全体を動かす指導者になった時、川上さんと同じことを感じるのかもしれません。前田智徳は現代のプロ野球の世界においては、生き残り難いタイプです。だからこそ将来はコーチをして欲しいと思います。熊本工出身者は監督として成功しています。V9の川上さん、西武の伊東勤、ソフトバンクの秋山幸二。秋山監督はどちらかというと「監督」のイメージは私にはありませんでした。

 ―前田選手が指導者としてどうか?あまり考えたことがありませんでした。

 もちろん、まだ少し先の話です。50代の人達が前田を自分の姿に置き換えて懸命に応援していますからね。だからプロ野球は面白いんです。しかし、いずれバットを置く日が来ます。カープの、強い時代の流れが消えかかっているんです。でもその匂いを継承している前田が指導者になれば、また変わるでしょう。自己改革です。新しいものを常に取り入れてきたカープにあって、伝統の匂いを継承する前田智徳が指導者になることも新たな挑戦と言えるでしょう。
 前田が他人のことをチームの事を考える自己改革をしたら第2の川上哲治になれるかもしれないと、私は笑われるような「妄想」をしてみたのですが…。



--- copyright 2001-2002 New Voice Shimamura Pro ---
info@shimamura.ne.jp