B.B.MOOK267スポーツ・スピリット21高校野球珠玉の名勝負&名場面ベスト100
[特別対談]
植草貞夫(元・朝日放送アナウンサー)×島村俊治(元・NHKアナウンサー)
『語り部』たちの甲子園
名アナウンサーが語りつくす甲子園名勝負とネット裏の真実
はじめに
ベースボールマガジン社
定価 980円
“語り部”たちの甲子園
 植草アナ40年、島村アナ30年。
 この長い甲子園の放送暦は、そのまま戦後の甲子園の高校野球降盛期と重なる。甲子園の表から裏までを知り尽くした2人が名勝負ベスト3を中心に甲子園の楽しさ、素晴らしさ、恐さ、悲しさ・・・・
 要するに「甲子園のすべて」をエピソードを交えて説き明かす。
●松山商vs三沢、箕島vs星陵の延長18回の攻防がなんと言っても強烈
お2人にベストゲーム3つを語っていただく前に、編成部に寄せられた戦後のベストゲームのアンケートの回答についての感想をお聞きしましょう。
島村 98年の夏の横浜vsPL学園がトップですねぇ。やはり、どうしても記憶が鮮明な新しい試合に集まるのでしょう。
植草 2位の79年夏の箕島vs星陵は順当でしょうが、24年前のことなのに意外に若い人の得票が多いですね。確かに強烈な印象を与える試合でした。おや、49年春の北野vs芦屋が19位と随分上の方に来ていますね。
島村 オールスター並みの組織票(笑)
植草 阪と兵庫の決勝なのにねぇ。さすがに中京商vs明石(33年夏)はありませんね。あ、これは戦前か(笑)。3位が69年夏の松山商vs三沢の延長18回、0対0の引き分け。これは、私のベスト3に間違いなく入る試合です。
島村 じゃあ、われわれの話に移りましょうか。この松山商vs三沢の頃は私はまだ甲子園の放送席には入っておりませんが、植草さんは当然この決勝は実況されましたよね。
植草 延長18回の引き分けも、翌日の再試合もやりました。
島村 それはすごいですねぇ。
植草 解説の好村三郎さん(朝日新聞)に「君は幸運だ。こんな試合はもう二度とないよ」と言われましてね。でも、再試合のほうは全く覚えていない(笑)
島村 私にとってもあれはベスト3に入る試合ですね。たまたま取材に甲子園に来ていまして、一観客として観戦しました。だから、かえって感激の度合いが高かったんですよ。スポーツアナウンサーなら一度はこういう試合を中継したいと痛切に思いましたね。
植草 15回裏、16回裏と松山商は1死満塁のピンチが続きましてね。15回はカウント0-3の絶対絶命。投手の井上(明)君はよくしのぎましたよ。
島村 あの試合の球審の郷正裕さんの妹さんが私の小学校の同級生なんです。だから、お兄さんお気持ちが、なんだか切実なものとしてこちらに伝わってきました。
植草 0-3から2-3まで持ち直すのですが。それがボールくさいとか言われましたからね。三沢の太田(幸二)君は262球ですか、投球数が。あの引き分けの後では、再試合はどうしたって印象が薄くなりますよ(4対2で松山商が優勝)。私のベスト3はこの試合がトップだとすれば、後の2つは、先の箕島vs星陵と85年夏のPL学園−宇部商ですかね。PLの清原(和博)君と宇部商の藤井(進)君のホームランの打ち合いは迫力がありました。(この大会、清原5本塁打、藤井4本塁打)。ただ、私としては、放送する人間として一つの方向づけができたかなという意味で、78年夏のPL−高知商も忘れられないんですよ。
島村 いわゆる“逆転のPL”の夏ですね。
植草 9回裏2死からの逆転サヨナラですからね。これが3度目の正直となったPLの夏の大会初制覇でした。
島村 それにしても3つに絞るのは難しいですねぇ。せめて5つ・・・・(笑)私は名勝負というのは、時があり、素晴らしい人がいて、そこに勝負運があり、それらが噛み合って作られるものだと思います。これは誤解を受ける表現かもしれませんが、無名校ではなく伝統校、あるイメージを持った学校が時と場所をもらって繰り広げる戦い、これが名勝負だと思います。それでいくと箕島−星陵は外せませんね。
植草 あれは、ナイターになりましたから、朝日放送は6時で中継終了。私はそのあと夜のハイライト用に放送を続けました。ナイターだと、高校野球であって高校野球ではない、一種独自の雰囲気になりますね。
島村 私はこの試合の担当ではなかったのですが、球審の永野元玄さんと試合後に食事をする約束をしていたので、ネット裏で見ていました。ところが、いつまでたっても終わらない。延長13回ぐらいでしたかね、永野さんがネットに近づいてきて謝るように盛んにお辞儀をするんです(笑)
植草 行けませんというサインですね。あれは8時くらいだったですかね、終了が。
島村 結局10時くらいに食事にいったのですが、そこで彼は「これが最後のサヨナラのボールだ」と言って、星陵の堅田(外司昭)投手が箕島の上野(敬三)君に左中間にサヨナラ打たされたボールを私にくれたのです。今日はそれを持参しました。これです。
植草 ホ〜。それにしてもよく球審のところに戻ってきましたね。あれは延長18回でしたからねぇ。あとアウト2つで引き分け再試合となるところ。あそこで負けるのは本当につらいですよ。
島村 こういうものを私などが所有しているのはいけないことかもしれませんから、いずれどこかに寄贈しようと思っています。永野さんは堅田君には試合の使用球を渡しました。サヨナラの打球ではあまりにつらかろうと思ったのかもしれませんね。
植草 あの試合はいろいろありましたねぇ。星陵の一塁手の加藤(直樹)君が箕島の森川(康弘)君のファウルフライを落球した後に同点ホームランされたり、箕島の嶋田(宗彦)君が起死回生のホームランを打ったり・・・・
島村 双方に同じようなシーンが続き、因縁の連鎖みたいなものが全体にちりばめられて・・・・。これが人生ではないだろうか、というものが出ていましたねぇ。名勝負は、常に悲劇性を帯びますね。
植草 その主人公である堅田君は今年は社会人で審判をやるそうです。また、加藤君は、あの落球でずいぶん苦しんだそうですが、「私は落球の加藤です」とセールスのまくらにするほどになったそうです(笑)みんな40代。社会の中堅ですものね。
●79年から87年ぐらいまでが甲子園黄金期。監督も多士済々だった。
島村 ベスト3の3つ目は、決勝戦が初めてサヨナラホームランで決まった77年夏の東洋大姫路ー東邦ですかねぇ。東邦の「バンビ」坂本(佳一)君の爽やかな印象もあって、記憶に残る試合です。
植草 延長10回の裏でした。打った姫路の安井(浩二)君がホームを踏むのが見えないんです。みんながわーっとホームに集まって輪を作って出迎えたので。それほど劇的だった。安井君は明大からSSK(現エスエスケイ)に入りましたが、夏が来ると必ず挨拶に来てくれます。こういう付き合いができるのがこの仕事の楽しさですね。
島村 われわれがファンとは少し違う試合の選び方をするのは、そういうものがあるからでしょうね。
植草 74年夏ですね。延長15回、鹿実に定岡(正二)、相模に原(辰則)がいました。
島村 あの時は、スタンド全体が「鹿実に勝たせたい!」と半官びいきになって、すごかったですね。
植草 そうでした、そうでした。
島村 鹿実が勝って準決勝に進むのですが、準決勝の防府商戦はサヨナラ負け。定岡は右手首を負傷してマウンドにいなかったのですが、2番手の堂園(一宏)投手の2塁けん制悪送球をさらに中堅手がトンネルして試合が終わると、定岡君は中堅手の森元(峻)君の肩を優しく抱いた。これが忘れられないですね。
植草 金属バットが初めて登場した大会でもありました。しかし、こうみると、どんどん名勝負、好チームが出てきますね。
島村 時代を作ったチームというのがありますよね。私は87年に春夏連覇を達成したPL 学園が強いと思いましたね
植草 83年から85年までのPLもすごい。桑田(真澄)、清原の時代です。春夏連覇の池田も強かった(82年〜83年)。いや、79年の春夏連覇の箕島だって忘れ難いですよ。
島村 困ってしまいますねぇ(笑)
植草 79年から87年ぐらいまでが黄金期だったような気がしますね。選手も素晴らしかったけど、監督も多士済々だった。名物監督がいっぱいいました。
島村 高校野球は監督の存在が大きいですね。名勝負には欠くことができません。箕島・尾藤(公)、池田・蔦(文也)、PL学園・中村(順司)取出ニ、常総学院・木内(幸夫)、高知商・谷脇(一夫)・・・・きりがないほどですね。
植草 横浜・渡辺(元智)、星陵・山下(智茂)の両監督もいます。
島村 PLの時代を思い出してみますと、KKは案外1対1の名勝負が少ないんじゃないんですか。85年春の猪野商・渡辺智男と清原の対決(準決勝)は見ごたえがありました。真向勝負で3三振の投球は見事でした。
植草 前にも言いましたが、その年の夏のPL−宇部商の清原、藤井の打ち合いもすごかった。池田の時代からPLの時代に移る83年夏の準決勝PL−池田戦の池田・水野(雄仁)とPL・桑田の勝負も面白かった(PLが7対0で完勝)。あれは、水野君が桑田君にホームランを浴びるのですが、私は実況で「(水野は)いつもやっていることを逆にやられました」と言いました(笑)。二人ともバッティングは素晴らしかったですからね。
島村 そうでしたねえ。
植草 黄金期の初めのところと言えるのでしょうか。決勝で両チームのエースが引っ込んでしまった80年の横浜−早稲田実の試合も記憶に残っています。横浜・愛甲(猛)と早実・荒木(大輔)の投げ合いだったのですが、どうしても荒木君のほうに肩入れしちゃう。愛好君が最後まで残ったらどう放送しようかなと実は困っていたのです(笑)。ところが、川戸(浩)君に代わった。彼がまた泣きそうな顔で投げるんです。しめた、この方が絵になる(笑)
島村 でもゲームセットになると彼は取り残されてしまうんです。キャッチャーはなぜかファーストの愛甲君と抱き合ってる(笑)。水野、愛甲、荒木らのような勝負に恵まれなかったのが作新学院の江川(卓)投手だったかもしれません。ライバルがいなかった。相手打者にも恵まれなかった。だから、広島商にファウル、ファウルで粘られて負けたとか(73年春)、銚子商に雨中で押し出しサヨナラとか(73年夏)、そういう勝負ばかりが記憶に残ってしまう。
植草 それはあるかもしれませんね。銚子商の前には柳川商にバスター打法で揺さぶられて苦戦しています。何か江川君の場合には苦戦とか負けるとかのインパクトといいますか、そっちの方が強いですね。同時代にkkのような存在がいれば、江川君もだいぶ違っていたかもしれません。彼は最後まで行けないものがあるんですかね
島村 そんな気がしますね。
明徳−星陵の5敬遠はアナウンサーとしては「ボール」と20回言うだけ・・・・・
植草 時代はちょっとさかのぼりますが、下関商の池永(正明)も忘れられない選手です。ズシンと重い球でね。
島村 植草さんがご覧になった中で最高の投手と言えば?
植草 それはやはり浪商の尾崎(行雄)です。とにかく速かった。それと、徳島商の坂東(英二)。私は入社3年目ぐらいでしたが、あの魚津との延長18回引き分けがありましたから余計に印象深い。
島村 現代のスピードナンバーワンと言えば横浜・松坂(大輔)なのですが、98年の夏はアメリカのゴルフ中継で見ていません。ちょうどあの一年は抜けているんです。
植草 私も横浜−PL戦は放送していないので印象が薄い。あの時は京都のスタジオでテレビで見ていました。アンケートで1位になったのは、松山商−三沢、箕島−星陵に間に合わなかった世代が、ようやく見つけた名勝負という感じで票が集まったのかもしれません。私の中ではトップには来ませんね。
島村 私も後で見たり聞いたりしたのですが、同じ感想です。名勝負とはいえないが、インパクトのあった試合が甲子園には沢山ありますね。85年夏のPL−東海大山形戦が25位にランクされているのは、これもまた高校野球という印象があるのでしょうね。山形の先発投手は5回で実に20点を取られました。
植草 その投手のことを思えば、やはり心を打たれるものがあるんです。あの試合、たまたまアナウンサー志望のウチの息子か甲子園に来ていて、隣に座らせて「お前、実況してみい」と喋らせたんです。途中で息子は「お父さん、もう止めるワ」(笑)まさに、ありえない試合だったのですが、もう絶対にあり得ないのは92年夏の、あの5敬遠の明徳義塾−星陵戦の再現です。決勝の引き分け再試合はあるかもしれませんが、あのようなことは二度とありません。それほどインパクトと影響力のある試合でした。明徳の馬淵(史郎)監督は去年の夏の優勝でどこまで吹っ切れたか・・・・。
島村 あの試合は誰が放送したのか心配でした。ああいう状況でしゃべるのは非常に難しい。私ならどうしゃべってだろうかと考えてしまいました。ルール上は別に問題ないのですから、非難するような表現になってはまずいし、そうかと言って・・・・
植草 私は、ボール、ボールと20回言うしかありませんでした。状況を正しく伝えるのがアナウンサーですから。隣の解説の松岡英孝さん(元・北陽監督)は勝負してくれ、勝負してくれ」の連呼です(笑)批評が解説者の仕事ですからこれは当然です。松岡さんは「四国ではこんなことはせん!」とまで言っていました(笑)
島村 植草さんは正しい判断をなさいました。
植草 アナウンサーは同時性を最も大事にしなくてはいけません。状況に遅れては意味がない。批評はいいのです。それにしてもあの試合での星陵・松井(秀喜)君と山下監督は立派でした。
島村 そうでしたねえ。あの試合は、松井君の原点として、今でもしっかりとあるのだと思います。
植草 まあ、ボールを投げざるを得ない投手の立場に立って「投手の河野(和洋)君としては勝負したいでしょう」のニュアンスまでは出しましたけどね。
監督の区裏が勝負の裏には常にあるということでしょうが、このへんで監督さんたちについても語っていただきましょう。
島村 高校野球では、監督の野球を見るーーーこれが楽しみの一つですね。私はPLの中村監督の野球に一番魅かれました。選手に基本技術をしっかり教える、これが中村監督です。社会人野球でよくやっているPLの選手に声を掛けると「高校の時はスタンドにいました」と言う選手が多い。中村監督はこういう選手を作りたいのです。「30歳まで野球を心の友としてどこまでもやり続けなさい」が選手への教えでした。対照的に、池田の蔦監督は育てる、教えるというのではなく、山の子供たちを甲子園に連れて行って大会を見せてやる、というスタイルでしたね。
植草 それもまた一つの見識でしてね。また、あの風貌で得をしてましたね(笑)職業としての監督というのも当然あるわけで、常総の木内監督などはそこでいい仕事をしている。いろんな監督さんがいるわけですから、監督さんの性格をよく呑み込んで放送することが大事ですね。
アナウンサーは口に出したら最後。困ったら黙るのが一番
島村 ところで、28年間、夏の決勝を担当された植草さんですから相当の試合数を放送されたでしょうね。
植草 28年も独占してきましたから、恨みをのんで朝日放送を退社していった同僚もいることでしょう(笑)。1年で15試合ぐらいはやりますから40年として600試合ぐらいでしょうか。これに阪神の試合などプロ野球を加えると2000試合に届くかもしれません。名球界に入れるぜ、なんて言ってますが・(笑)島村さんは?
島村 私は鳥取支局など地方で予選を結構放送しています。100試合ぐらいですかね。NHKは甲子園は春も夏も放送がありますから、年20試合ぐらいですか。 あわせて600。同じぐらいですかね。
植草 何しろ朝日放送は春はゼロですから(笑)。
島村 最近は声を聞いて分かるアナウンサーがいなくなりましたねえ。エース不在です。全体にうまくなっているんですよ。でも、心を打つものがない。1人だけ名調子で、あとは下手というのでは困りますので、私は甲子園の放送はトータルで見てほしいとよく言ってきました。全体でレベルアップさせたい。でも、やはりエースは出てきてもらいたいんです。朝日放送に植草さんの夏があったように。
植草 いやいや、そんな。
島村 甲子園の放送には詩情がほしい。ガンガンうたい上げるのではなく、何というか散文詩の心ですかね。植草さんの時代にはそういうものが合った。それは春の毎日放送の人たちにもありました。
植草 民放はそういう点で個性は出しやすい面はありますね。78年のPL−高知戦でしたが、9回裏2死まで来た。あと一人で高知商の優勝です。高知商のキャプテンはたまたま補欠の選手でした。それで私は「あとアウト1つで試合に出ていない補欠のキャプテンの手に深紅の大旗が手渡されます」とやった。あとでNHKの人が「うらやましい。われわれはとてもああは言えません」(笑)島村さんは春夏ご覧になってきたわけですが、やはり夏の方が印象が強いですか?私は春は知らないのですが。
島村 夏でしょうねえ。ただ、春にはまた次があるという希望が感じられます。雪国のチームは春を待って甲子園にやってきて、「また来いよ」の声に送られて帰る。これはいいところですよね。夏は一本勝負ですから、最後の勝者以外はどうしても悲劇性を帯びてしまう。秋が近い寂しさも加わって・・・・
植草 そう、あの秋が近い寂しさはなんとも言えませんせんねえ。夏の大会が終わる頃には阪神ももう終わっていますから(笑)、今日で今年の俺も終わりか、と感傷的になってしまうんです。
島村 植草さんは早くからアナウンサー志望だったのですか?
植草 そうですね。子供の頃から父親の前で相撲の実況のマネをさせられてましたから。物を読み上げるのが好きだったんですね。私は志村正順さんの口調に影響されましたね。早稲田では放送研究会に所属はしていませんでしたが、アナウンサー志望1本ヤリでNHK,TBS、当時はラジオ東京でしたが、そして朝日放送の3つしか受けませんでした。NHKには落とされ、TBSは音声が合格、朝日放送は学科が合格。ところが、TBSの学科と朝日放送の音声の試験日が重なってしまったんです。オレに学科がもう一度受かるはずがない。でも音声はTBSが受かるんなら朝日放送も受かるだろうと迷わず朝日放送を選びました。(笑)それでも1000人の応募に2人合格の競争率でしたね。
島村 それはすごい。
植草 でも、多ければ多いほど、受験者の質も悪いということですからね(笑)
島村 でも、朝日放送を選ばなかったらのちの植草アナウンサーはないわけですから、実に正しい選択だったわけです。
植草 島村さんの場合はどうだったのですか?
島村 NHKでは音楽のディレクターをやりたかったのです。それが、いろいろありまして、これからのアナウンサーは番組制作もできるからとだまされて(笑)、アナウンサーにさせられてしまいました。ですから、スポーツアナウンサーなんて考えてみたこともありませんでした。それが、鳥取支局時代の64年の秋だったと思いますが、米子の湊山球場で岡山東商・平松(政次)と関西・森安(敏明)の投げ合いを見てしまったことで私は変わりました。
植草 それはすごいものを見ましたねえ。
島村 これなら自分の思ってやってるものの中でやれそうだ、こんな試合を放送してみたい、スポーツアナウンサーになりたい、そういう気持ちが湧いてきたのです。湊山球場の夕映えの中で、私はそう決kk03081 へのリンクkk03081 へのリンク意しました。
植草 私は高校野球にはほとんど興味がなく、プロ野球が大好きで子供の頃は弁当もって後楽園球場に通ったものです。昭和20年代の東京には高校野球のチームがなかったんです。早稲田実の王(貞治)投手が登場してからですよ、人気が出てのは。そんな私が甲子園の決勝を28回も放送するのですから不思議なものです。
島村 ところで最近の甲子園ですが、松坂(大輔)君の98年は別にして、寂しい時代になってしまいましたよね。
植草 平凡というより平板な時代といいますか・・・
島村 そんな感じですね。スポーツが多様化して、野球にだけ集中するということはなくなった。昔のような、昭和40年代から50年代のようなすごさは戻ってこないのでしょうか・・・
植草 最近は開会式の観客が少ないですもの。
島村 そうですよねえ。
最後にお二人の取っておきのお話を。
植草 78年の夏でしたが、南陽工の津田(恒美)投手が負けた試合、私が広島の局からインタビューを頼まれたことがありました。ところが津田君、泣きじゃくるばかりで話なんかできやしない。私はしばらくマイクを突き出して「以上、津田投手でした」(笑)。アナウンサーはね、困ったら黙れ、なんですよ。
島村 そのとおりですね。
植草 それと「荒木大輔、鼻つまむ!」の実況も思い出です。82年の夏、池田との試合でしたが、早実の荒木君がやまびこ打線に乱打された。たしか江上(光治)君にホームランされた時ですが、まだ塁を回っているときに“やられたな”という感じで鼻をつまんだ。私はしゃべりながらもモニターを見ていたから分かったのです。この部分が自慢になるわけです。
島村 私もこの試合です。こちらは苦い記憶ですが。あれは準々決勝だったのですが、最後の決めのところで「池田が準決勝進出」と言うべきところを「順々決勝進出!」と言ってしまったのです。
植草 アナウンサーは口に出して言ったら最後ですからねえ。
島村 それも決めのところですから、絶対にやっちゃいけないのです。私は何度も「失礼しました」を繰り返し、あまりに大差の試合だったので、とかなんとか弁解がましいことまで言ってしまった。あとで上司に「言い訳はいらんよ」と言われました(笑)
植草 ウチには、神宮球場から放送しているのに「こちら甲子園です」と言った猛者がいますよ(笑)
 それがアナウンサーなんでしょうね。今日は貴重なお話をありがとうございました。


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