季刊誌 ぺだる VOI.16 冬号
インタビュー 清水宏保
「金メダルを超えるほど仕事をせいこうさせたい」

 長野オリンピックスピードスケート男子500b金メダリストの清水宏保さん。
 輝かしい経歴を持ちながら、実はメダリストという肩書をあまり好まないとも語る。
 バランスの取れた人生設計を目指し、多方面で挑戦中の清水さんのこれからに注目です。

スピードスケートから次のステージへ

島村
  滑った人、しゃべった人の長野オリンピックでしたが、久しぶりですね。表情が穏やかになりましたね。以前はレーサーとして、戦う清水宏保だったから。

清水
  あの頃は、自分の中に籠もって人を寄せ付けないようにしていましたね。今は講演をしたり大学院に行ったり、多方面でいろいろ挑戦中です。スケートしかやってこなかったので、経験を積んで自分の身にしたいのと、もう一度勉強して、自分の感覚だけで培ってきたものを言語化し、自分のやりたいことが少しでも形になればと考えています。
 
島村
  スピードスケートの指導者として後輩を足得ようという気持ちはありますか?

清水
  ボランティアで若い世代を教えていますが、ナショナルチームで指導したいという気持ちは今はないですね。33年間、スピードスケートは十分やったので、次のステージで一から学びたい気持ちが強いです。ただ10年後か20年後かわかりませんが、将来スケート界に恩返しはしたいと思っています。今も年に1回、ナショナルチームで講演して、自分の経験を話していますが、そういった形の貢献は引き続きやっていきたいですね。

島村
  でも、講演でも金メダルの話をするでしょうし、一生、“金メダルの清水宏保”というキャッチフレーズはつきますよね。

清水
  その肩書はあまり好きじゃないんです。今は、忘れられるという意味ではなくて、「あ、スケート選手だったんですね?」と言われるぐらい、金メダルを超えるほど仕事を成功させたいと思っています。

島村
  欧米の選手には、実際、実業界や報道の世界で活躍している人がいますよね。そういう人はカッコいいですよ。いつもメダルをぶら下げて紹介されるんじゃなくてね。

清水
  バランスの取れた人生設計というか、生き方をしていきたいです。日本の選手って、どうして もオリンピックでメダルを取ることがゴールになってしまう。おっしゃるように、欧米諸国ではそれは通過点で、次の人生にどう役立てていくか、あくまできっかけ作りとして利用しているだけですよね。

島村
  むしろそこからがスタートかもしれない。橋本聖子さんなんてそうですよね。

清水
  聖子さんという素晴らしいお手本が目の前にいらっしゃるので、僕は恵まれています。三協精機(現日本電産サンキョー)を辞めて独立したのも、聖子さんのアドバイスがあったからなんです。企業スポーツにとらわれることなく、日本のスポーツはこうあるべきだという意見もいただきました。そこから自分の考えも更に広がっていったんです。

島村
  やっぱり現役引退後、どう生きていくかが大事ですよね。その第一歩として、大学院ではどんなことを学んでいるんですか?

清水
  4月から週に4日、医療経営学を学んでいます。数字は苦手で、ファイナンスとか計算が出てくるともうチンプンカンプンですけど(笑)、考え方や理念、倫理観は、スポーツとまったく一緒なんですよ。見えない資産とか、メンタリティや思考回路、意思決定論、どれもスポーツで学んだことの復讐をしている感覚で授業を受けています。

島村
  その医療経営学を具体的に言うと?

清水
  日本の病院は院長先生が経営していますが、アメリカでは経営者とドクターは別なので、そこをうまく連携させることが必要なんです。また、西洋医学と東洋医学の統合医療を行う中で、スポーツと医療を繋げることもします。実際、鍼灸師やマッサージ師には、スポーツをやっていてけがをしたのをきっかけに勉強した人も多いので、筋肉の構造や使い方を知っていたり、スポーツで培った経験や感覚が生かせるんです。でも、いざ免許を取っても生かす場所がなかったり、意外に個に野評価が低かったりするので、そこを病院側と繋げていくわけです。僕も将来は自分で医療経営をしたいと考えています。


オリンピックを客観的に見てみると

島村
  あなたにとってオリンピックは、4回出場して金・銀とメダルを取り、その中に身を置いて戦う場だったわけですよね。競技をやってる間は夢中で、“オリンピックとは”ということに考えがいかなかったと思いますが、今ちょっと離れてみてどうですか?

清水
  やっぱり出る方がいいですね(笑)。バンクーバーオリンピックではメディア側で行かせていただ来ましたが、初めて放映の仕組みや大変さを勉強できて、非常に興味が湧きました。でも同時に、放映権をいくらで買って、その費用対効果がどれだけ出とか、裏側も間近で観て、「オリンピックってこういうものなんだ」って、ちょっと冷めてしまったんです。商業オリンピックというか、もう興業ですよね。果たしてその影の部分を選手に伝えて理解させるべきなのか迷いますけど、それを知ることで、自己マネージメント力というか、マスコミの対応の仕方やオリンピックへの挑み方も変わってくると思います。

島村
  テレビの功罪ってやっぱりありますね。僕は、勝者よりもむしろ負けた選手をどう表現するか大事だと思ってやってきましたが、テレビはいい意味で、選手の活躍を世界に知らせて感動を得ることができます。でも一方で、お金の力で競技スケジュールまで変えてしまう。本来第一であるはずの競技者のことを誰も考えていないですよね。

清水
  なぜこの時間に試合やらなきゃいけないんだとよく思いましたけど、現役の時はそれに対して少しも疑問を持ちませんでした。

島村
  東京がまた立候補していますけど、僕は、若い世代にオリンピックの素晴らしさを知ってもらうには、やっぱり生で見るのがいいと思うので、ぜひやってほしいんです。ただ、東京でやるなら、一度原点に戻って、アスリートが一番いい状況で、一番いいパフォーマンスを見せられる大会にするというキャッチフレーズを出してくれたら嬉しいですね。その点からも、オリンピック運動もあなたの大きな仕事にしてほしいと思うんです。

清水
  僕はまだそんな立場ではないですし、それほど知識もありませんが、もちろん協力を要請されれば、それがまた経験となって次のステップに生かせると思うので、JOCも含め、オリンピックの事業には出来るだけ協力したいと思っています。


スポーツは子供でも世界に羽ばたきたいという感覚にさせてくれる
スポーツの感覚は希望の涙を与えてくれる

島村
  あの東日本大震災では、スポーツの力がずいぶん表現できたと思います。例えばプロ野球選手会が、新井(貴浩)会長を中心に、自分たちの意思で、上層部が決定した開幕を遅らせたり、楽天の嶋(基宏)選手が「絶対に見せましょう、東北の底力を」と言ったのもそうですよね。JOCでも若い人に活躍してほしいと思いますが、あなた自身も含めて、震災後のスポーツ選手の動きについてどう考えていますか?

清水
  石川遼君やサッカー選手が被災地を訪問して、子供たちが大喜びするのを見ると、スポーツの力って大きいなと思います。子どもたちの目を世界に向けさせて、希望や勇気を与える一方で避難所の高齢者が身体を動かすことで健康を維持できるのもスポーツの力です。スポーツの感動は、気持ちいい涙、希望な涙を与えてくれるじゃないですか。僕も過去に、いろいろなオリンピック選手、柔道の古賀(稔彦)さんや吉田秀彦さんの金メダルを見て、自分も取りたいと思いました。スポーツは、子供でも世界に羽ばたきたいという感覚にさせてくれるんです。オリンピック選手はメディア志向になりがちですけど、今回のことで、やっぱりこうあるべきだと再認識した選手も多いと思うんですよ。僕もその一人で、震災以来、スポーツをやる意味や安全性を考えたり、国威発揚というか、スポーツで日本の力を示そうという意識に変わってきているので、大きなステップになっていくだろうなと感じています。

島村
  日本中の人がいろいろなことを考え、自分で行動を起こそうと思っている中で、スポーツ選手もスケートだけ、野球だけをやっているのではなく、世の中と実は繋がっているんだという意識が芽生えましたよね。そういう面では、今後、災いをいい方向に転じることが出来たらいいなとあと思います。


競輪選手になることも正直何度か考えました
厳しい父親から大きな影響を受ける

島村
  清水さんが自転車に関ったのは、スケートのトレーニングの一環ですか?
 
清水
  そうです。小学生の時からロード車に乗って、60キロ走ってました(笑)。でも、僕にはスケーも自転車もどっちも辛くて、常に自分との戦いでしたね。サイクリングなら楽しいですけど、僕の場合は必ず後ろから父親が車でついて来るので(笑)。
 
島村
  自転車の選手になる気はあったの?
 
清水
  正直何度か考えました。最初は高校を卒業する時、競輪選手になろうと思って親に反対され、長野オリンピックの後も、実はいろいろ迷っていたんです。今でも自転車にはよく乗ります。
  最近流行っているので、現役の時使っていたピストを街乗り用に改造して、渋谷近辺を普通に乗ってますよ(笑)。
 
島村
  自転車もスケートも道具を扱います。
 
清水
  そうですね。自転車なら、足の力をいかにタイヤに効率よく伝えるか、スケートの場合は、脚力を1ミリの刃にいかに伝えるかが難しいんです。ただ身体を鍛えてパワーだけあってもダメな所が、この競技の面白さの一つですね。鉄製の刃は熱によって膨張したり、冷めて収縮したり、しなったり、同じ職人が同じように作っても当たり外れがあるんですよ。鉄は生きているんだなあと思います。

島村
  道具と言えば、長野の頃はちょうどスラップスケートが登場して大きな話題になったから、一般の人も、どれだけ道具が大事かということに気づいたわけだけど、新しい用具には相当神経を使いました?

清水
  全く違う道具を1年間で使いこなさなければならない状況は、全員が同じでしたし、僕は昔からすごく器用で、バランス系の運動が非常に得意だったので、誰よりも早く対応できるという根拠のない自信があったんです(笑)だからギリギリまで、むしろその状況を楽しんでいました。

島村
  イチローはバットを絶対人に触らせないけれど、清水さんもそれは同じですか?

清水
  父親に、スケート靴は命の次に大切な物だから、強い気持ちで接しなければいけない。愛着を持って、人に触らせるなと言われていました。でも実際、愛着が湧くと一体感が確かに増すんですよね。言うことを聞いてくれるというか、裏切らないというか。肝心な所で、身体のミスではなく道具の影響がどうしても出てきてしまいますから。

島村
  話を聞いていると、やっぱり亡くなったお父さんの教育、躾は強いですね。

清水
  影響は受けていますね。亡くなった分、美化しているかもしれないですが、いろいろな発想を持っている、やんちゃで面白い人でした。笑ってはいけないと言われていたので、歯も見せられませんでしたけど。話す時も絶対敬語で、「はい、いいえ。すみません」ぐらい。でも、父親は絶対に強く、精神面で怖い存在でなければいけないと思うんです。僕も子どもを育てるとしたら、相当厳しくしそうですね(笑)。子どもの精神的な逃げ道がなくなるので、一人は優しい方がいいと思いますけど。うちも母は優しい、許す人でした。

島村
  あなたが金メダルを取った時、お母さんの涙を伝えて、思わず自分も涙ぐんでしまったことを思い出しました。今後は、最後の一点にスケートを置きながら、いろいろ模索して歩んでいきたいということですね。

清水
  そうですね。最終的に、日本のスポーツへの還元に繋げていきたいですね。スポーツ法案も成立しましたし(笑)。やり甲斐のある仕事になってくると思います。

島村
  今での日本のスポーツは、どちらかと言うと個人の努力によるもので、国や組織のバックアップは弱かったと思います。これからはもっとスポーツに、財力はもちろん、環境面などいろいろ支援も必要です。清水さんの活躍の場もたくさんありそうですね。



インタビューを終えて・島村俊治

 清水さんの「『あの人、金メダリストとはしらなかった』と思われる人生いを送りたい」という思いに拍手を送ります。いつまでもメダルをかけていない姿勢にほっとしたのが、正直な感想です。現役時代の魅力は「自立心と自分のやり方にこだわる」ことでした。現在、勉強している「医療経営」も彼でなければたどりつかないテーマでしょう。これから先「清水流」の人生をどう歩んでいくのか、期待して見つめていきましょう。



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