スイミングマガジン・「2005年09月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」
◎ 第4回 「負けたからこそ」

 2012年の五輪はロンドンに決定した。パリが僅かにリードという下馬評を覆し、ロンドンとしては3回目の開催になる。ロンドンと日本の五輪参加は今まではすれ違いだった。ロンドンの最初の五輪開催は第4回大会・1908年だったが、日本はまだ五輪に登場していない。次の第5回のストックホルムからだからニアミスだった。ロンドンで次に開催したのは1948年・昭和23年になる。当時、日本は第二次世界大戦の責任を問われ、五輪の参加は認められなかった。勿論、国際水泳連盟からも加盟を外されていたから、世界記録を出しても公認されないという四面楚歌の状態だった。
 その時、日本には世界的スイマーがいた。古橋広之進と橋爪四郎である。
 ロンドン五輪の競泳は1948年7月29日から8月7日までの期間だった。男子六種目、女子五種目である。日本水泳連盟はロンドン五輪にぶつけて日本選手権を開いた。同時開催での勝負を挑んだのである。五輪の男子六種目は全てアメリカが勝ったが、注目の400M自由形の記録を比較すると古橋の圧勝、1500などは五輪チャンピオンのマックレーンの記録を古橋、橋爪ともに40秒以上も上回る世界新記録だった。だから、五輪に出られなかったことが、たまらなく切ないのだ。日本が五輪復帰を認められたのは翌昭和24年の6月15日だった。「フジヤマのトビウオ」古橋が世界の注目をあつめ、敗戦の日本に希望を与えてくれた。日米対抗、日豪対抗の海外からの中継を家族でラジオを囲み、一喜一憂したものだ。時折、聞き取りにくくなるアナウンサーの実況が、「海を越えてくる遠い異国」を実感させてくれた。次のヘルシンキ五輪は古橋さんの力は衰えていて惨敗を喫した。「敗れた古橋を責めないでください」と、当時のNHK飯田アナウンサーは伝ている。
 時に恵まれていたら、古橋さんは、北島康介より、遥か昔に世界新記録でダブル金メダルをとったことは間違いない。でも、絶頂期にチャンスに恵まれなかったから、古橋さんは、その後の人生を世界の水泳界、日本の水泳の発展に尽力されたのだろう。今度のロンドン五輪は若い選手たちに過去を伝える絶好の機会になる。ぜひ、古橋広之進名誉会長や橋爪さんたちの経験を若い恵まれた世代のスイマーに聞かせてやってほしいのだ。
 五輪の主役は水陸といわれる。日本陸上競技連盟の小掛照二名誉副会長が春の叙勲で「旭日中綬章」を受けられた。長年に渡って陸上界の指導とかじ取り役をされて来られたのだが、小掛さんは現役時代は三段とびの世界記録保持者だった。1955年当時の16メートル48は驚異的な記録である。翌56年のメルボルン五輪では、金メダルに最も近いと思われていたが、8位と期待はずれの成績に終わってしまった。「なぜ、世界記録保持者が負けたのか」綬章の祝賀会に出席した時に興味深い話を聞かせてもらえた。青木半治名誉会長は「彼は一切言い訳をしなかった。そして、あれから50年後、ポロッと洩らしたんです。あの時、足の踝をいためていた、と」小掛さんは挨拶でこう話された。「日本中の期待に応えられず重い十字架を背負ってしまいました。金メダルは指導者として、陸連のリーダーとして選手をそだてるしかないと決心しました。今の私は五輪で負けたことから始まりました。選手強化一筋、マラソンだけでなく、室伏君も金をとってくれ、世界で戦えるメドがたちました」
 古橋さんも、小掛さんも金メダルを獲得していたら、まったく違う生き方をしていたかも知れません。色々な負け方があるのですが、負けを糧にすると、勝利以上の素晴らしい生き方が出来るということなのでしょう。



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