スイミングマガジン・「2006年 1月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(1月号)
◎ 第6回 「語り継ぎたい名スイマー」
△いつも笑顔の葉室さん

 戦前のベルリン五輪・200メートル平泳ぎの金メダリスト葉室鉄夫さんがお亡くなりになったという新聞記事に接した。85歳、最後にお会いしたのは今年の日本選手権だった。このコラムでも紹介したように、優勝者にメダルを授与するプレゼンテーターとして横浜国際プールにお見えになった際、古橋名誉会長とご一緒させて貰い、控え室で久しぶり談笑した。杖をもたれていたが、柔和な笑顔は変わらなかった。訃報に接し、「あの時、メダルの授与をなさって本当によかった」とつくづく思うのだ。過去があって今があり、そして未来がある。日本の水泳の歴史を築いた人々をいつまでも大切にする心をスポーツ界は育んで欲しいのだ。
 葉室さんに初めてお会いしたのは1978年、西ベルリンで世界水泳選手権が開かれた際のことだ。この時、私は現地からの衛星生中継でベルリンオリンピックスタジアムにいた。葉室さんは世界選手権の観戦を兼ねて、金メダルを獲得した思い出のプールを訪ねていた。当時、平泳ぎの第一人者で17歳の高橋繁浩選手が注目を集め、金メダルの期待がかかっていた。 ライバルは西ドイツのクッシュ選手。1936年のベルリン五輪で葉室さんとドイツのエルビン・ジータスさんが激しく優勝争いをした背景と似通っていただけに、私たち放送席も興味深々だった。ところが、高橋は番狂わせの予選落ちをしてしまう。その予選レースを葉室さんとジータスさんはスタンドで並んで観戦していた。話を聞きに行くと葉室さんは「若いのだから、結果を考えず予選といえどもひたむきに泳いで欲しかった」ジータスさんは「最後の50で何で寝てしまったんだい」と感想を漏らしていた。


△ ベルリンの金メダル

 葉室さんが金メダルをとったときは18歳だった。ベルリンの金メダルといえば、前畑秀子さんの金メダルが有名だ。「前畑ガンバレ」は語り継がれているが、葉室さんの金メダルは、それに比べて誰もが知っているわけではない。前畑ガンバレの実況録音が残り、葉室さんのレースは実況が残っていないからなのだろうか。葉室さんから、ベルリンの世界選手権の合間に興味ぶかいお話を伺ったものだ。当時、ドイツではテレビの試験放送が始まり、葉室さんは前畑さんのレースをテレビで見ていたという。しかし、今のテレビのようには行かず、「ぼんやりした泳ぐ姿が映っているだけで、ドイツのアナウンサーもゲネンゲルと前畑の名前を連呼しているだけで、どちらが勝ったかは分からなかった」そうだ。
 葉室さんから贈呈された「水泳おもしろばなし」という著作をひもとくと、NHKのラジオの実況は前畑さんのレースだけでなく、葉室さんのレースも行われていたらしい。「あっ、ジータス出ました。葉室を抜きそうです。葉室危ない。」「葉室、勝ちました。ニッポン、勝ちました」というアナウンスだったという。残念なことに、この実況録音は聞いたことがない。前畑さんが日本の女性金メダル第1号とはいえ、葉室さんの金メダルもこの種目の日本の三連覇だったのだから、快挙と言わずして何というのだろう。音が残っていれば葉室さんは、もっと有名になっていたかも知れない。水泳おもしろばなしを読むと、当時はベルリンまでは飛行機ではなく、東京駅から列車で下関、釜山まで連絡船にのり、朝鮮、満州、ベルリンと列車の旅だったというから驚きだ。何と15日かけて五輪会場にたどり着いたという。


△ ジータスさんとの友情

 葉室さんは金メダリストとして水泳界に貢献しただけでなく、水から上がると、主に毎日新聞のスポーツの記者として長年、取材活動を行ってきた。ライフワークとしてスポーツの現場からの証言者として試合を観戦し、記事を書いてこられた。ヘルシンキ、メルボルン、東京の五輪を伝えるだけでなく、今度、初めて知ったのだが、アメリカンフットボールの甲子園ボウルは葉室さんが創設したそうだ。
 ジータスさんとはベルリン後も親しくお付き合いを続けてこられた。一九七二年のミュンヘン五輪の時には、ベルリン五輪から36年の年月をへて、思い出のプールで再度、対決をする。葉室さん56歳、ジータスさんは62歳になっていた。ジータスさんの方が6歳も年上で五輪の対決をしたのだった。もう200メートルは難しいので50メートル平泳ぎ、今度は僅かの差でジータスさんが勝った。ドイツの新聞は「金メダルは36年遅かった」と書きたてたが、ジータスさんは「このレースは友情を深めるためのもの、勝負ではない」と語ったという。
 ジータスさんは1986年に亡くなっている。今頃は天国でジータスさんと再度、「友情のレース」を行い、ドイツビールとワインで乾杯しているに違いない。
 スイマーの皆さん、どうか素晴らしいライバルに恵まれて欲しい。心の友は生きる力になってくれるはずだ。



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