スイミングマガジン・「2007年12月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(12月号)
◎ 第29回 「悲報続く中で」

○木原光知子さんの死を悼んで
 日本水泳連盟理事の木原光知子さんが10月13日に亡くなられた。59歳の若さ、子供たちの育成のプロジェクトを進めていく最中、まだまだ遣り残した仕事は数々あったのに、残念でならない。プールで小学生らの指導中に亡くなられたと聞くと、最後まで「水とともにあった」木原さんらしい人生だったと思う。
 東京オリンピックの最年少スイマーとして「ミミ」の愛称でヒロインになった。私がNHKアナウンサーとしてスタートした年だっただけに忘れがたい。勿論、駆け出しのアナウンサーの私には、まだテレビで見るだけのスイマーだった。岡山の高校を卒業後、確か、男子学生ばかりの日大水泳部に入り、アジア大会では金メダルを幾つもとったと記憶している。その後、モデルやタレントをして芸能界活動をしていた。スポーツ選手のタレント化は私の好みではなかったので木原さんのことは無関心になっていたのだが、その間、木原さんはスイミングクラブの運営などビジネスの世界でも成功を収め、タレントとしてだけでなく、水泳界の発展、子供たちの水泳教育にも尽くしてこられたことを後に教えられた。
 木原さんと心が通じたのは、日本水泳連盟の創立記念の式典で二人で司会をした時だった。正直、私は一緒に並ぶのが嫌だったので、あまり嬉しくは無かった。スマートで私より背の高い木原さんの横に、太めの小柄の私、どうみても様にならないではないか。それでも、打ち合わせの時に「思ったことをズバッといえる人だ」と頼もしく感じた。「記念式典でも、来られた方々に楽しんでもらえる工夫や演出がほしい」と主張されていた。
 こんなことがあった。祝賀会の最中に水連やご来賓の祝辞中に会場でざわめいたり、話を聞かない方がかなりいた。たまりかねた私がやんわり注意すると、木原さんはそれ以上の厳しい言い方で「お静かに願いますと島村さんが申し上げたでしょう。失礼のないようにしてください」正義感の強い木原さんでした。タレントも悪くは無かったけど、「教育者になっていたらなあ」と思えるほど多彩な能力を持ち合わせていたのでしょう。
 女性のための「ウーマンズ・スイム・フェスティバル」のリーダーとして活躍もされた木原さん、その想いは必ず引き継いでもらいたいものです。それにしても、毎日泳いでトレーニングを続けていた木原さんが若くして亡くなられたことを知ると、健康にいいこととはいったい何なんだろうと首を傾げてしまうのです。
 木原さんのこと、皆さん、いつまでも忘れないでください。

○小林徳太郎さんも逝く
 同じ日に元日本水泳連盟専務理事、副会長の小林徳太郎さんも肝臓がんで亡くなられた。このところ体調が悪く、昨年から入退院を繰り返していたと聞く。奥様の具合も同時に良くなかったそうで、さぞ辛い日々を過ごされたのではないだろうか。
 小林さんが専務理事時代、日本の水泳界は復活の兆しを見せた。ソウル、バルセロナのオリンピックの際、小林さんは日本選手団の水泳の総監督を勤められた。温厚な小林さんが現場のコーチたちのやり易い環境づくりに配慮されたのではないかと私は当時の日本ティームを見ていた。逆転勝ちの鈴木大地、奇跡の最年少金メダルの岩崎恭子と小林さんは勝運にも恵まれた。祝賀会での小林さんのほっとした満面の笑みを今でも思い出す。名前のように「徳」があったのだろう。
 小林さんは早稲田の出身だが、スイマーとして卓越していたという話は聞いたことが無い。得意の種目は平泳ぎなのか背泳ぎなのか、水球をやっていたとも聞く。そんな小林さんが、水連の役員になり、古橋広之進会長を補佐し実直に影の役目を果されてきた。世界を舞台に「飛び魚」を続けた古橋会長のアシストとしては、あまり表に出ず着実に業務をこなされたのは小林さんらしい水泳界への貢献だったといえるだろう。
水連関係者から聴くところによると、小林さんは経験された時代の記録と思い出を書き綴っていたという。興味深い回顧録をぜひ今の若者に読んでもらえるようにして欲しいものだ。
 来年の北京オリンピック、天国のお二人に喜んで貰えるような活躍を日本水泳ティームに期待したい。



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