スイミングマガジン・「2009年08月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(09月号)
◎ ローマは一日でならず

 世界水泳選手権が始まり、懐かしさと期待感で日々の報道を見聞きしていた。私が中継していた第七回大会は1994年の夏のローマだったから、もう十五年も前になる。一番驚いたのは競泳のあと、プールサイドに深紅の絨毯がしかれ、メインイベントとして水球が行われたことだ。競泳の放送が終わり、私たちスタッフが帰り支度を始めたところでイタリア対スペインの因縁の対決が始まった。「ところ変われば品変わる」というが、ヨーロッパはサッカー、ハンドボール、水球が大人気なのだと、改めて日本やアメリカとの違いを知らされたものだ。

 テレビ局が力を入れてシンクロをゴールデンアワーに持ってきたのに、史上初のメダルなしという結果に終わってしまった。テニス出身のスポーツキャスターが盛り上げる様子が可哀そうになったほどだ。応援放送は決まった時はいいが、その通りに行かないとスポーツジャーナリズムは存在しないのか、と首を傾げることにもなりかねまい。

 シンクロは世界選手権も五輪も常にメダルは間違いなかった。1978年の西ベルリンの世界選手権から初めてテレビの中継が行われたのだが、ツインシスターズで人気の藤原姉妹が銀メダルをとり、私たちスタッフはシンクロティームの健闘を祝って、中華料理店へ井村コーチ、藤原姉妹らを招き「今夜は体重を気にせず目いっぱい食べてください」と祝杯をあげたことがあった。1984年のロサンゼルス五輪の時、私は炎天下のもとソロとデュエットの予選と決勝をすべて生中継した。現在のシンクロの委員長・本間三和子さん・当時元好さんと木村さえ子さんのコンビ、私はメダル間違いないものと安心して実況を担当していた。演技は素晴らしかったのだが、カリフォルニアの強烈な太陽のもと、暑かったことの方が強烈で予選と決勝の同じ演技の繰り返しにいささか、閉口していたというのが本心だろう。

 当時はアメリカとカナダが圧倒的に強く、美しさ、同調性にスピーディでスポーツ的な要素を加えた画期的な演技だったように記憶している。当時のスペインは話題にもならず、ロシアもそうだった。でも舞踊、音楽、バレエなど優れた民族のロシア、スペイン、中国が世界のトップになったことは不思議でもなんでもないのだろう。そこに優れた指導力加われば答えが出たということだ。北京五輪で中国を指導した井村雅代コーチ、今回スペインの強化に六年も力を貸した藤木麻祐子コーチ、日本のコーチ力が世界のトップであることは間違いないのだろう。

 一度、下り坂にかかると、盛り返すには倍以上の力が必要だといわれる。まして採点競技は実績や印象度がものをいう。三十五年も続いたメダル、ローマは一日にしてならずというように、これからの復活の道のりは険しいものになるのだろう。それにしても、今までは、選手が常にクロスオーバーしていたのに、一気にコーチも選手も交代してしまった。この競技はカリスマ性のある指導者が必要なはずだ。

 競泳の古賀淳也の金メダルは快挙だった。国際大会は積極敵なレースしかないだろう。ただ、今の競泳について、論評をすることが難しいのは悲しいことといわざるをえないだろう。こんなに沢山の世界新記録が誕生し、しかも、あまり注目されなかった選手までも記録をだしてしまうと、否応なしに水着問題に関わってくる。国際水連はなんでこれほど対応が遅いのだ。今回の世界記録は残り、新型の高速水着は来年から規制するのでは混乱は続くばかりだ。フェルプスが今後の大会出場を拒否するような発言をせざるを得ないとは、なんと悲しいことだろう。選手のことを第一に考えてほしい。今回の高速水着の世界記録が永遠に残ってしまうことだってないとはいえないのだ。

 こうゆう心配をしないで、競技のもつ素晴らしさだけを追っていた「あの頃」が懐かしい。94年のローマの世界選手権では十個もの世界新記録が誕生した。今思えばむだ毛をそったり、スキンヘッドが登場するなど、他愛もないことを話題にしたものだ。放送が終わって、ホテルのテラスで祝杯を挙げていたら、日本語堪能のポン引きに乗せられ、黒い衣装のイタリア・マフィアの経営するバーに連れ込まれ、目茶目茶ぼられたことを思い出す。あの時は、今は亡き飛び込みの解説の小山俊治さんに払ってもらった。お金持ちの小山さんのお陰で私と近藤富士男アナウンサーは逃げかえれました。ローマは怖い、水着も怖い。



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