スイミングマガジン・「2011年05月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(05月号)
◎ 大震災の影響

 三月十一日、東日本は未曽有の大震災に見舞われた。テレビ画面に映し出されたこの世のものとは思えない惨状を茫然と見つめるしかなかった。命を失った方、被災された方に何と言葉をかけたらいいのだろう。昔見た日本沈没という映画を思い出した。ありえないと思っていたのに、現実のものとなってしまった。自然は美しく、心を癒してくれるものだが、時として、人間ではどうすること出来ない狂暴なものに変身することを思い知らされた。天災が起きて、改めて日本を、日本人を考えることが出来た。六年前の米のルイジアナはハリケーンに襲われたが、群衆が店を壊し、略奪を行った。昨年の中米ハイチ地震でも商店から強奪するシーンをテレビは映し出していた。日本は、かって、阪神淡路大震災に見舞われたが、人々は整然としており、忍耐と強調、冷静に対応する心が日本人にはあった。このコラムを広島に向かう新幹線の中で書いているのだが、偶然にも神戸を通過するところだった。あの時の「がんばろう神戸」、冷静に耐える力があれば、この最大の危機を乗り切ることも不可能ではないだろう。そして、世界各地から支援も行われている。東北は逆境から立ち直る日がきっと来ることを信じて、車窓の神戸の街を見つめていた。

 この大震災はスポーツ界にも多大の影響を与えた。地震、大津波、福島の原発の恐怖、ライフラインも確保出来ない中、スポーツをやるどころではない。サッカーの公式戦、名古屋国際マラソン、フィギュアースケートの世界選手権東京大会、女子ゴルフ、バレー、バスケット、競馬等、ビッグイベントはこぞって中止された。プロ野球界と高校野球については、それぞれの立場によって、色々と意見があり、違いがあるようだ。スポーツは見る人に勇気を与えることがある。しかし、選手が心に不安を抱えて素晴らしいプレーが出来るのか、被災者にすまないと思いつつプレーすることは、酷なのではなかろうか。選抜が始まりマスコミは「希望の光」ととらえるだろうが、高校野球を三十年語ってきた私には,球児や若者が厳しい状況を共有することも高野連が唱える「教育」ではないのかと、思うのだが。

 そうした中、日本水泳連盟の対応は早かった。ジュニアオリンピックや日本選手権を開く辰巳国際水泳場の床が壊れ、修復が間に合わないことと電力不足の生活の中での運営を考慮して早々と中止を決断したことを高く評価したい。そして、四月五日から十日の日本選手権に関しては中止にするが、四月九日から十一日までの短縮日程で浜松で世界選手権の代表選考会を行うことにした。六日間と三日間ではスケジュールが大幅に違う。浜松の代表選考会は準決勝を行わない三日間の大会だから幾つかの種目に掛け持ちする予定だった選手は考え直さねばなるまい。選手もコーチもさぞかし切り替えに苦労したことだろう。それでも、レースが行われることだけでも有難いと言えるのだろう。

 ところで、ふと疑問が沸いてきた。浜松の大会は世界選手権の選考会で日本選手権は中止なのである。日本選手権の中止は水泳の歴史であったのだろうか。日本水泳連盟は大正13年・1923年に発足、1925年に日本選手権がスタートしている。当時男子六種目、女子五種目だった。日本選手権の中止は一回だけあった。1941年七月の大会である。私はこの年の六月に生まれた。中止の理由は軍需物資輸送で交通制限、戦争に向かう直前でスポーツどころではなかった。その年の十二月八日、日本は太平洋戦争に突入している。翌1942年は戦時中だが行われた。そして1943年から1945年迄は戦争のさ中と終戦で行われていない。この三年間は中止ではなく、最初から開催不可だった。再開されたのは、1946年・昭和二十一年で、なんと第一回国民体育大会兼日本選手権で宝塚のプールで行われたのだ。神宮プールに戻り、本来の日本選手権に戻ったのは、1947年のことである。なんと、日本選手権の中止は1941年以来70年ぶりということになるのだ。

 日本選手権はその年の日本一を決める最高の大会である。このままだと、今年は日本チャンピオンがいない大会になってしまう。世界選手権の代表選考会は行われるが、その代表は日本チャンピオンとして歴史に名を刻むわけではない。代表を狙う日本のトップレベルの選手だけが日本選手権を目指しているのではなく、日本中のスイマーが日本選手権に参加したい、一年最大のテーマ・目標としてトレーニングを積んできたはずだ。競泳だけでなく、飛び込み、シンクロの選手も同じ思いのはずである。「日本選手権の舞台で泳ぎたい」という想いを叶えさせてあげることも、原点として考えるなら、代表選考会より大切なことなのではなかろうか。日本選手権は今まででもこの時期に行われてきたとは限らない。夏に行われたこともある。今からスケジュールを工面することは大変なことだろう。しかし、日本選手権としての大会は、大震災の被害から少し落ち着くであろう夏場以降に何とか出来ないものだろうか。1946年の戦争から再開された大会は国民体育大会兼日本選手権だった。日本チャンピオンのいない年、悲しい歴史になってしまう。



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