スイミングマガジン・「2011年09月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(09月号)
◎ 様々な五輪への想い

 ロンドンオリンピックへのパスポートを約束する「にんじん作戦」の上海世界水泳選手権、このコメントを書いている段階では、まだ当選者は出ていない。トップレベルの選手は内定が早く決まれば、五輪へ向けての調整はマイペースでやれるわけだから、ぜひ金メダルを獲って決めたいところだろう。このことに異論はないのだが、かって世界選手権は五輪の中間年にあったので、今とは世界選手権の価値が違っていた。今のように五輪を挟んで行うようになれば、選手にとってレース経験を積めるわけだし、水泳界もテレビマネーで潤うことになるわけだから、これも時代の流れとして受け止めざるを得ないだろう。ただ、五輪前年の世界選手権が「五輪の予選」のような感じになってしまうと、世界選手権が五輪より遥かに下のステータスになってしまうような感覚になるのは、私だけなのだろうか。

 そのロンドンオリンピックまで一年を切った。ロンドンで開く五輪は三回目、五輪を迎えるイベントが色々とはじまっているが、現地からの情報を聞いていると、ロンドン市民の盛り上がりや関心は、余り高くないという。

 一年前を迎えるイベントで組織委員長のセバスティヤン・コーのスピーチを懐かしく聞いた。陸上競技の中距離で「貴公子」といわれたスマートでハンサムな好青年だったコー、そのレースぶりも颯爽たるもので女性ファンに圧倒的な人気者だった。コーはロンドンで五輪を開くことは「絶大の経済効果」があるのだから、ロンドン市民はぜひ盛り上げて欲しいと訴えていた。確かに、日本と同じようにイギリスでも大学を出ても就職が決まらない若者が多く、オリンピックへ向けての様々な建設が進む中、経済活動で仕事を得られる学生が増えているというリポートも伝えられている。ただ、これはあくまで副次的なものでなければならないだろう。五輪は経済発展のために開くのではなく、あくまで、選手が素晴らしい環境のもとで力を出し尽くし、そのことが見る人に勇気や感動を与えることになるのだ。都市の発展や経済効果は後から付いてくるもので、そのために五輪を開くのではないだろう。勿論、組織委員長としてのセバスチャン・コーの「盛り上がってくれないと困る」という心境は察するにまりあるのだが。

 七月の夏休みの頃、私は「にわか大学教授」に早変わりする。大学院で「スポーツジャーナリズム論」を講義するのだが、学生には「先生じゃないから先生と呼ぶな」という変な先生である。パワーポイントも白板も絶対に使わない。言葉で伝えるから必要なことは書き取ること。つまりスポーツ現場の記者感覚で聞いてもらい、お互いにテーマについて意見を言い合う方法で講座を進めている。パワーポイントは判り易いし、先生が楽をできること間違いないのたが、私は言葉で表現する。それがマスコミの第一歩だと思っているからだ。

 大学院の学生は社会人になってから、再び学生に戻りたいと言う人や、まだやり残した競技生活や研究を続けたいという人が多いので真剣味があり面白い。ある学生は陸上競技のフィールド種目でトップレベルで教壇に立ちながら競技を続けていたが、ライバルで日本一の選手が病に倒れ、見舞ったときに、「もう一度競技をしたい。無念です」といってこの世を去ったことに遭遇して、二年間、大学に戻り、大学院で学びながら競技を続けていると話してくれた。まだ競技を止めるにはやり残したことが多く、悔しい思いのまま止められないという学生も数人いた。彼ら、彼女達はスポーツ界の動きをしっかり見つめていた。「立候補する東京五輪について」をテーマにすると、ほとんどの学生が、自分は競技者だから、ナマで見たいし、オリンピックを味わいたい。反面、震災を道具にするのは納得しがたい。九年の間に震災の傷跡は少しずつ回復に向かっていくだろうが、原発についてはしっかりとした解決なくして、五輪を誘致していいものだろうかという、疑問符を出す学生がいた。政治家やスポーツ界をリードする人の意見だけではなく、五輪は何のためにやるのか、スポーツをやるということはどういうことなのか、そして、今の五輪はこれでいいのかという原点をしっかり見ている学生がかなりいたことで、「にわか先生」もやりがいのある講義となったのでした。



--- copyright 2006-2011 New Voice Shimamura Pro ---
info@shimamura.ne.jp