スイミングマガジン・「2011年11月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(11月号)
◎ 訃報に接して想うこと

 学生時代はよく映画を見に行った。西部劇やアクションもの、日本の時代劇など毎週末は映画館に通い詰めたものだ。最近はたまにしか行かない。昔は混んでいるのが嫌だったが、今の映画館は空席だらけ、満員の観衆の中で見る映画が懐かしい。

 そういえば、八月に亡くなられた日本水泳連盟、ヘルシンキオリンピックのリレーで銀メダリストだった浜口喜博さんは映画俳優だった。最近はスポーツ界で活躍したり、五輪でメダリストになった人がテレビタレント風になるケースをよく見かける。私の好みではないので、私はチャンネルを回すかスイッチを切る。俳優になるのは素晴らしいことだが、スポーツの名声をいつまでもぶら下げてタレントになる生き方は嫌いだからだ。

 子供の頃、「ターザン」というアメリカ映画が日本でもヒットした。確か、エドガー・バロウズの小説を映画化したものだが、ジャングルを舞台に野性児ターザンが動物と共に現代の侵略者どもに立ち向かい、美女を助けるというお決まりのシリーズだったように記憶している。ターザンが登場する時「あっあ、あー」と叫ぶ声を、子供達は、勿論私もよく真似をして、無敵のターザンに成り切っていたものだ。この映画はターザンの侵略、復讐など十数本のシリーズで1940年より少し前に製作されたものだから、私の生まれる前だったはずだ。当時、日本にはかなりの年月が経ってから上映されたもようだ。このターザン役はオリンピックの自由形で五つの金メダルを獲ったアメリカのスイマー・ジョニー・ワイズミューラーが演じ、一躍銀幕のスターになった。水泳選手だったから、子供の私が見ても、「あんまりうまくねぇなぁ」という感じだったが、何しろ苦み走ったハンサムで、筋骨隆々、かっこよかった。この映画から西部劇が好きになり、アメリカの音楽、そしてスポーツに興味をもつようになったのかも知れない。ジョニーワイズミューラーの五輪での泳ぎを私は知らないが、銀幕の中で川や海を豪快に泳ぐ白黒の画面を私は今でも思い出すことが出来る。

 日本の映画王と言われた大映の「ワンマン」と言われた永田雅一さんは日本版のワイズミューラーを狙ったのだろう。浜口喜博に目を付けた。逞しく、長身、当時の日本人としては橋爪四郎さんとともにかっこいいスイマーだったのだろう。尤も私の印象では映画スターの端正な二枚目では無かったように思う。なんとなく、ぼくとつで不器用な感じが良かったのだろう。浜口さんは「和製ターザン」としてデビューした。どの映画がヒットしたのか、学生だった私には記憶が定かてはないのだが、怪獣映画のガメラや平家物語、テレビの少年ジェットなどはうっすらと覚えている。映画は50本以上出演されたはずだ。主役というより重要な役としてのわき役が多かったのではないだろうか。

 浜口さんとのお付き合いは水泳連盟の役員として復帰され、強化委員、監督、理事の頃からだった。私は「あっあ、あー」のターザンのイメージが強かったのだが、初めてお会いした時に、敵役をやった時の雰囲気とは逆の温和な方で、「昔、映画をみましたよ」というと、てれくさそうな仕草で笑われたのが印象に残っている。スイマーとしては恵まれていた浜口さんだが、監督としては不運だったといえるだろう。1980年のモスクワオリンピックの水泳監督だったが、日本は米ソの対立でアメリカを始めとする西側諸国側に立ち、モスクワオリンピックをボイコット、浜口さんも参加を断念せざるを得なかった。実は、私もオリンピック実況アナウンサーだったが「幻」に終わっている。八回の五輪アナウンサーだったが、あと一回は行けたのにと、今思うと心残りではある。

 次のロサンゼルスオリンピックでも浜口さんは監督だった。しかし、メダル候補が怪我でチャンスを逃したり、大麻事件があったりして、残念な結果に終わってしまった。この時、私もロサンゼルスの青空の下、競泳の予選から決勝までの全レース、シンクロ、飛び込みの予選決勝と炎天下、真っ黒になりながら喋り続けたものだ。競泳の好結果が出ないのに、浜口さんは、私達報道陣に、きちんと対応してくれた。スイマーとして、映画俳優として、全力で泳ぎ、演じ、指導した方だった。浜口さんの水泳界での功績、映画界でのユニークな役者生活、忘れないように、きちんとした形で残して欲しいと願っている。さようなら、ターザン「あっあ、あー」



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