Column No.05 (2002/11/22デイリースポーツ掲載分)
◎孫其禎さん逝去に思う

 1936年のベルリンマラソンの金メダリスト孫其禎(ソンキジョン)さんが90歳で亡くなられた。スポーツの世界を語る者にとってはその厳しい人生に激動の時代を生き抜いた姿を尊く思ったものだ。韓国が二本の統治下にあったため、孫さんは日本で育ったとはいえ、「日本」の国籍が五輪の公式記録として残っている。
 1984年のロサンゼルス五輪の開会式を担当した私は、あの時、孫さんがロサンゼルスに招待され、確かオリンピックコロシアムで「韓国」の孫其禎と紹介され「それが正しい」と納得した記憶がある。孫さんはずっと国籍変更の希望を持ち続けていたが、それは叶わなかった。
 1992年のバルセロナ五輪の男子マラソンを担当した私は、日本・韓国の優勝もあると考え、事実関係を確認することに気を使った。その時までの日本の過去のマラソンのメダルは金1、銀1、銅2だった。その内の二つ、金と銅はベルリンの孫其禎さんと南昇竜さんである。韓国人のメダルは日本人としてカウントされている。バルセロナは韓国の黄永祚(ファンヨンジョ)と日本の森下広一が最後までデットヒートを繰り広げた名勝負、下りを利用した黄の一瞬のスパートで決着がついた。「競技場のスタンドに孫其禎さんがいるはずです」と私はアナウンスしたのを覚えている。森下が破れたのは残念だったが、負けた相手が黄で「借りを返せた」とは言わないまでも、妙にホッとした感情があったのは確かだ。
 孫其禎さんは韓国陸連の会長を務めるなど陸上界の発展に貢献し、後輩が韓国としての金メダルという夢を叶えてくれたのだが、表彰式を伝えながら「ベルリン五輪で孫其禎さんはどんな思いで日の丸をを見つめていたのだろう」とスタンドに目をやったものだ。
 いま、日本はマラソン・駅伝ブーム、TVの視聴率はプロ野球に次ぐ高さである。高額の賞金、コマーシャル、恵まれた環境、TVのスター。孫其禎さんの時代は貧困とハングリーだったし、国籍さえままならずに走ったのだ。繁栄を謳歌しすぎてはいけない。



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